エレミヤ38:1−13/使徒20:7−12/ルカ7:11−17/詩編35:1−10
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。」(ルカ7:16)
もうずいぶん古い映画ですが、「愛と悲しみのボレロ」というクロード・ルルーシュ監督の映画があります。1981年の作品。184分、つまり3時間を超える大作で、映画館で見た時にはその長さが気になって、また3〜4世代に亘る物語、年代で言えば1935年頃から1980年頃までを、同じ人物が親子の役で登場するために話が複雑でちょっとでも気を抜くと状況が分からなくなってしまうのですが、しかし見終わったときに、言いようのない感覚を受けました。
今はもう亡くなってしまいましたが、ジョルジュ・ドンが「ボレロ」にのせて圧倒的な迫力のバレエを魅せる。物語を構成するいくつかの家族はロシア・ドイツ・フランス・アメリカでそれぞれ第二次大戦の中を生きて、戦後も戦争の影響に振り回され、けれどもその家族が「ボレロ」の音楽に引き寄せられるように、最後のシーンとなるユニセフと赤十字のチャリティ公演でパリ・トロカデロ広場に一同が集められる。壮大なドラマでした。
わたしたちは「戦争」と言えばまず何を置いても第二次世界大戦をイメージしますが、ヨーロッパとアメリカに視点を移せば、いわゆる「戦後」、この映画が作られた1980年代までにどれ程戦争が繰り返されたことかと思います。劇中、ドイツの音楽家で戦時中はパリ進駐軍の軍楽隊指揮者を務め、ラストのチャリティショーでは「ボレロ」を指揮したカールへのインタビューのシーンがあります。「今(1980年代)の若い人たちより幸せに見えますが」と聞かれて彼は、「確かにわたしたちは世界大戦を経験したが、それ以外は良い時代だったのだ」と応えます。それはルルーシュ監督が、1940年代のあの重い時代でさえ、希望の見えない今(1980年代)の時代の人々より幸せだったと言ってのけているわけです。世相に対する強烈な皮肉がそこにあります。
エレミヤは南王国ユダで活動した預言者です。しかし、エレミヤの時代は王国が滅亡する時代でした。ユダを苦しめたのは新軍事大国のバビロニアです。このバビロニアの台頭で、当時ユダを含む世界の情勢が大きく変化しようとしている時代、世界規模の混乱と戦乱の時代だったのです。
この混乱の中で、ユダのとるべき道は限られていました。バビロニアに対抗するのか、降伏するのかです。実際ユダ王国の首都エルサレムがバビロニア軍に1年8ヶ月に亘って包囲され、いわゆる兵糧攻めに遭っているそのぎりぎりの中で決断が求められたのです。
エレミヤは「この都にとどまる者は、剣、飢饉、疫病で死ぬ。しかし、出てカルデア軍に投降する者は生き残る。命だけは助かって生き残る。」(エレミヤ38:2b)と説きました。つまり、バビロニアに降伏しようというのです。しかし、ゼデキヤ王は──実は彼はユダ王エホヤキンの叔父にあたり、エホヤキンが捕虜となってバビロニアに連行されたあとバビロニアの王ネブカドネツァルによって立てられた王でしたから、自分の保身だけを考えたとしたらバビロニアに対立するのはちょっとおかしいのですが──、バビロニアによって苦しめられていたエドム・モアブ・アンモン・フェニキアと共に連合を組んでバビロニアに対抗しようとしました。頼みの綱はエジプトでした。しかしその総てがバビロニアに敗れ、紀元前587年、ついに南ユダは滅びます。
国が滅ぶということがどれ程悲惨な状況を生み出すか、しかも今のような国際協調の時代ではなく、基本的人権の意識もない時代の話です。それはそれは凄惨を極めたことでしょう。ゼデキヤ王にしてもそうならないための選択をおこなったことに違いはありません。エレミヤは神の言葉を人々に告げる、たとえ相手が偽預言者や王であってもそれは変わりません。だがエレミヤの言葉は人々には受け入れられませんでした。あるいは世界情勢を冷静に見返せば、エレミヤの声に従ったとしても南ユダの滅亡は避けられなかったかも知れません。
では、神はこの出来事を通して、人々にいったい何を求めたのでしょうか。
残念ながらわたしたちには神の思いは分かりません。どちらにせよ国が滅ぶという事態になって、主だった人たちは皆捕虜となり、ユダヤ人は世界中に散らされて、以来イスラエルは1948年5月の独立宣言まで約2500年の間、「国」というものを持たない、持てないで来たのです。
歴史の責任を神さまにかぶせるのは、卑怯なことです。人間は知恵の木の実を食べたのだから、その知恵を持って世界の出来事に責任を負わなければならないでしょう。神のせいにしてはならない。けれども、それでもやはり人間は簡単に間違うし、容易く失敗します。これまでも何度となく人類に対する罪を犯し続けてきたのです。それはそれは大きく激しく凄惨な犠牲を伴いました。それでも人間は、その過ちに気づいてそれを償うことを今もなお出来ないでいるのかも知れません。
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。」(ルカ7:16)。この言葉のように神を賛美できるのはいったいいつでしょう。そんな日が本当に来るのでしょうか。
その日が来るということは、生命を回復してくださる神のわざが必ず勝利するということです。それさえも信じられなくなってしまうほど、わたしたちはあまりにも愚かな人間のわざに溺れ、流されています。
神のご計画ならば、人間の都合ではなく神の時間がまさる。そのことを信じて、希望の見えない時代に、希望を見出しそれを見つめて歩んでいきたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちの様々な過ちにもかかわらず、あなたはおつくりになったすべてのものを今この時も慈しんでくださいます。それがあなたのご計画なのです。わたしたちの都合ではなくあなたがご支配なさる時間において、その計画は遂行される。そのことにわたしたちが希望を見出すことができますように。自分自身が深く関わるこの暗闇の中で、あなたのご計画に光を見出す者となることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。